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「卒業」というもの

寒々とした空気に包まれたその日の陸前高田の空はどんより曇った重たい鉛色だった。
瓦礫は一部を残してすべて撤去され、何もなくなった「更地」には、あちこちでショベルカーやユンボ、ダンプカーなどといった工事用車両が復興の作業を進めている。

僕がその夜宿泊した「316号室」の窓は東側に向いていた。
その海側に向いた窓の向こうには、すべてを失った町と見晴らしが良すぎるほど何も遮るものが無い景色が広がる。
本来であれば「絶景」と呼ばれるに相応しいこの景色自体が震災の「爪痕」となっている。
現地を案内してくださった方の話によれば、僕が泊まっているこのホテルも津波によって全壊したため、新しく高台に建て直したそうだ。

どうりできれいなわけだ。

僕はその「再建」したホテルの一室で、翌日のことを考えていた。

その翌日は岩手県立高田高校の卒業記念式典にサプライズゲストとして出演させていただく。
この高田高校も津波で甚大な被害に遭ったため、その生徒らは震災の年から廃校になった学校に通学することを余儀なくされた。
あれから三年が経過した現在も、今もってその復旧の目処が立たず、この度の卒業記念式典もその廃校になった「大船渡農業高校」の体育館で行われた。

近年では大都市の私立高校などで、こういった式典にミュージシャンや著名人などのゲストを呼ぶ例は珍しくない。
だが、今回僕が出演させて頂いた高田高校の趣旨はそういった一連のものとは一線を画する。
なぜならこの学校はゲストを入れての卒業記念式典は恒例ではなく、今年限りのものだからだ。

事前に学校側から頂いたFAXを読ませてもらった。
そのFAXによれば、今年卒業する生徒さんたちは、あの「震災」の年の四月に入学された生徒たちだそうだ。
震災直後だったため、入学式も四月に執り行うことが出来ず、やっとの思いで五月に行い、制服も被害で失ったため、私服で出席する者も少なくなかったという。
中には震災でご両親を失った生徒もいる。
学校側やPTAはそんな彼らをとても不憫に思い、「せめて卒業式だけは何かいい思い出に残ることをしてやりたい」という一心で今回の卒業記念式典に至ったのだと。

そこで、僕に白羽の矢が立った。

何年か前の僕であれば、そんな重責に耐えられないとお断りしていたかもしれない。
しかし、寄る年波に「人とは何か」「人生とはなにか」という抽象的な理念と向き合うべく覚悟が決まってきていたので、今回頂いたこのお話を僕は有難くお受けした。

記念式典当日。
前日とは打って変わって陸前高田の空は雲一つない快晴だった。
ホテルを出発して車で30分。
僕たちは「旧大船渡農業高校」の校舎についた。
市長の挨拶や卒業生のインタビューなどで二時間ほどの待ち時間を経ていよいよ僕の出番だ。

「それが大事」で登場した。

僕が勝手に描いていた「悲壮感」のようなものは彼らの表情の中には微塵もなかった。
ただ明るく元気よく皆で「大合唱」した。
曲が終わり短いMCをする段取りになっていた。
出番前まで僕はあの話をしよう、この話をしようと、沢山思い巡らせていたのだが、あまりにも「達観」した彼らの満面の笑顔を見た途端、僕の言葉など陳腐に過ぎないと思い知らされた。
急遽、楽しげな話に切り替え、短めにMCを切り上げ、次の曲に繋げた。

「君の名前」を歌った。

おそらく彼らもこの曲は初めて聴くはずだ。
にもかかわらず、最後は全員で一緒にサビを合唱した。
ステージ上の僕の身体の中から熱いものがこみ上げてきているのをはっきりと感じた。

予定ではここままでだったのだが、司会者の方からもう一度彼らのために「それが大事」をとリクエストがあった。
僕は勿論、二つ返事。
アンコールに突入した。

彼らにとって僕の言葉など、どれも陳腐な気がした。
だが、あえて僕は最後に一言だけ置いてきた。

「人は大切な何かを失っても前に進み続けなければならない。でも、いつか必ず良くなる!約束する!卒業おめでとう!」と。

あの震災から今日でまる3年。

僕たちは何を学び、何を卒業できたのだろうか。

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